「市町村合併は正解か?」

上山信一

(MM日本国の研究 2001年09月12日発行 第78号 水曜論説、猪瀬直樹事務所)

●経営改革という視点が欠落

 最近、市町村合併の議論が盛んだ。財政危機の折、小規模の零細市町村ではやっていけないから、合併で再生させようという趣旨である。中央政府が旗を振り、各都道府県庁が傘下の市町村のどことどこを合併させるとよい、といったさまざまな調査研究をやっている。いま3200強ある市町村を1000にしよう、あるいは300がよい、といった各種提言もでている。

 市町村の側には反対する向きが多い。なぜなら首長と議員のポスト、人数が減る。職員も減る。町の名前が消えるのはいやだ。隣村に吸収されたくない、など理由はさまざまだ。関係者一同の意思がそろい、合併に向けて進んでいる事例はまだ少ない。

 この問題。皆さんは、どうお考えだろうか?「国の言うとおりだ。地域エゴはけしからん」という方もおられるだろうし、「国に言われて決めるのは自治の精神に反する」という方もおられるだろう。私は、推進派でも賛成派でもない。賛否を論ずる以前に、そもそもの議論の持ち出し方、進め方自体が間違っているように思う。あえて言えば、全面的に白紙に戻すべきだと考える。なぜなら第一に組織同士の「丸ごと合併」という単純な経営手法の意義に疑問を感じる。各地の実情に則し、思いやりと誠意をもってきめ細かく考えれば、他に有効な手法がある。第2に、たいした成果が見込めない手法の割に、合併に至る現場の苦労と苦痛が大きすぎる。第3に、そもそも国や県が市町村に「合併」という定食メニューを全国一律に提示する、という改革の手法自体がおかしい。上意下達の進め方自体が民主主義と住民自治の原則にそぐわない。

 ちなみに、私は何がなんでも市町村の合併に反対というわけでは決してない。個々の市町村の実情に照らせば、合併したほうがよい場合もある。だが、あたかも全国どこでも「合併」さえすれば再生できる、といわんばかりの論調には反対だ。「合併」は決して万能薬ではない。効き目のある場合もあるが、多くは苦い割に効果は薄い。その程度のものだ。だいいち失敗しても国や県は、責任をとらない。全国一律の定食メニューでしかない合併は、あくまでも選択肢の一つ、という程度に受け止めておくべきだろう。むしろ個々の市町村レベルではもっと本質的な経営改革に取り組もう。制度や組織の手直しをめぐる抽象論に割く時間があれば、むしろ現場の経営改革に注力しよう。

 さらに言えば、国(内閣)が本来取り組むべき制度の見直しは「市町村の合併」ではなく、「中央政府」の財源、税源の自治体への移管であり、過剰な国の規制・関与の見直しである。中央政府こそ、自らの存在の是非を見直すべきだと市町村側から問題提起するべきだ。

●合併は問題の先送りに過ぎない

 私はいままで14年間、日本の大企業の経営改革をやってきた。合併も手掛けた。その経験から言えることは、強者が弱者を吸収し、優れた経営ノウハウを持ちこまない限り、合併はすべからく失敗するということだ。特に、日本特有の衰退産業の50対50の対等合併がだめだ。成功例は皆無である。成功例は、強力な大が小を飲み込む吸収合併だけである。京セラとヤシカ、王子製紙と本州製紙などがそうだ。新聞紙上ではよく「規模が大きくなったから収益力が上がる」と書かれるが、これは大間違いだ。自力で大きく育った会社は、確かに収益力がある。だが昨今の大手銀行の合併のように弱体化した会社同士をくっつけ、規模だけ大きくしても再生へのきっかけは、決して見つからない。むしろ組織指揮系統の混乱が改革を遅らせている。さらに言えば、いまどき小規模零細だからやっていけない、というのはもはや時代遅れの発想だ。気のきいた会社はむしろ会社分割をどんどんやっている。事業部を独立させ、別会社にし、自由に経営させる。小さいことはいいことなのだ。

 ことは経営手法の是非の問題だけにおわらない。国家主導の合併推進運動は、民主主義と地方自治の基礎原理を崩すことにもつながりかねない。自治体経営の本質は、中央統制を極力廃し、各地でそこの実情に合わせた多様な制度と社会実験を進める、というところにある。改革の手法まで国や県が指定するくらいなら、むしろ市町村は廃止し、県の出先機関にしてしまえばよい。

 私はこう考える。

(1) 体力のない市町村同士を合併させても、絶対に救済できない。かえって、問題を先送りするだけだ。

(2) 市町村の再生策は、都道府県組織の解体、国から自治体への税財源の移転の問題とセットで議論すべきテーマである。

(3) そもそも国が音頭を取って「全国一律に自治制度を変える」という発想自体が、時代錯誤である。個々の市町村の実情はさまざまだ。各地の実情に合わせた多彩な生き残り策を個々に考えるしかない。

(4) 国が自治体経営の護送船団行政を続ける限りは、市町村の真の経営改革は難しい。これは、国が金融機関の護送船団行政を維持する限り、すべての金融機関が劣化していくという今の金融業の末路と同じである。合併で一時をしのいだとしても、市町村は銀行と同じく、公的資金を逐次投入されつつ、縮小均衡、つまり緩慢なる衰退を続けていくことになる。そして、誰も面倒を見てくれない終末の日を迎える。

(5) 護送船団行政を止めた結果、市町村の経営が破綻しても日常の行政サービスと住民の暮らしは守れる。役場が経営破たんしても、住民が組合を作り、行政サービスは外から買えばよい。失業した公務員のうち有能な人材だけをそこが雇えばよい。そのほうが、ずっと安く上がる。それでもどうしようもない時にこそ、国が介入するべきだ。例えば、サッチャーは、かつて荒廃した公立学校を父兄の申請さえあれば、国の直轄に転換する制度をつくり、一時的に救済した。市町村という組織、会社の運命と、個々の行政サービス、住民の運命は分けて考えるべきなのだ。

●中央集権の一律処理方式から個別の分散処理方式へ

 以下では、さらに詳しく、この問題を考えたい。

 まず第一に、市町村合併に限らず、機関委任事務の廃止など一連の自治制度改革は、そもそも全国一律の制度を維持するという前提に立つ限り、意図せずして国が設計した定食メニューを自治体に押し付けるという結果を招く。その結果、"国と自治体は対等"というキャッチフレーズも色あせる。地方のことは地方に任せる、という改革の趣旨に沿って考えれば、合併問題は、国が音頭を採るべきテーマではない。300だの1000だのという根拠のない直感的な「数合わせ」は、もってのほかだ。

 合併の是非、そして必要性は地域によってまったく異なる。そもそも地方自治制度は全国一律同一方式であるべき、という先入観念を捨てるべきだ。「日本は連邦国家ではない、だから行政制度は全国一律であるべきだ」と多くの日本人が信じている。だが、これは世界の常識からずれている。現に日本でも東京都と区市町村の関係はよそとは違う。また、沖縄や北海道だけのためのさまざまな振興策がある。米国ではもとより、英国でも地域によっては、県に相当する機関がなかったり、制度は地域によって多様である。

 そもそも、いくら日本が単一民族の国家だといっても、これだけ巨大で複雑なシステムは、もはや単一の制度では運用できない。また、成熟経済というものは、地域ごとの多様性を競争と活力の源泉とする。企業でも、コンピュータの世界と同様のダウンサイジングが起きている。中央集権の一律処理方式から個別の分散処理方式への進化は、21世紀の成熟経済社会の普遍原理である。

 第2に市町村合併などという大雑把な手法は、改革の初期の処方箋として提示すべきテーマではない。他の経営改善の正攻法をすべて検討したうえで、最後に検討すべき手法だ。経営改革は組織論からではなく、事業の見直しから始める。個々の事業を見ていけば、病院は3村で共同経営、バス事業は民間に委託、福祉は広域の7市町村で共同事業体をつくる、といったその地域にあった経営体制が描けるはずである。こうした分析もせずに人口や面積などから割り出し、合併の是非から議論するというのは、中央官僚による計画経済的な、それでいて実は粗雑な統制としか言い様がない。もちろん、なかには個々の事業の経済性をきちんと分析した結果、丸ごと3つの市町村を合併させるといった解もあっていい。問題はそこに至るプロセスなのである。とりわけ危険なのは、同一サイズの2つの市町村の対等合併である。どちらも弱体化し、ろくな経営ノウハウを持たないような状態で単に合併すると、かえって組織が混乱し、何も進まなくなる。

 第3に、もしも個々の事業の採算性分析ではなく、どうしても組織・制度の見直しから議論をはじめたい、というのならば、市町村だけでなく都道府県と国(各省庁)の機能・役割と管轄範囲もあわせて見直すべきである。たとえば、道路の管理は、広大な岩手県なら県単位でいいかもしれない。だが狭い平野部の県ではどうか? 年金事務は市町村から総務省に移管し、郵便局でやる、などといった案もある。個々の事業ごとにみていけば、やがて市町村の合併以前に、都道府県の存在意義や中央省庁の権限の基盤自体が怪しくなるだろう。

 その先にある議論は、道州制かもしれないが、これとて、九州には最適かもしれないが、よそではどうかわからない。また、業務によっては逆に、全国一律で統制したほうがいいものもある。要はケースバイケースであり、全国を一律に論ずるという手法自体がおかしいのである。

●市町村の自律のラストチャンス

 たしかに、いまの市町村に任せていては経営改革はなかなか進まない。しかし、だからといって国が音頭をとろうとすると、「制度改革」という画一手法しか手段がなくなる。なぜならば、国は個々の自治体経営の中身には関与できない。できることといえばせいぜい制度、組織の見直し程度になってしまう。その結果、国の都合で、経営改革の手法が限定されてしまうというのは、個々の自治体にとっては不幸なことだ。これはまるで、ハイテク兵器を駆使してゲリラ戦を戦うべき戦場で、政府支給の旧式大型戦車を無理矢理まず最初に使えといわれ当惑する兵士の状況にも似ている。

 現代における自治体経営は、全国一律のモデルで、また制度・組織の手直しだけで解けるような問題ではない。まずは、個々の自治体が経営という視点で、個々の事業に着目してクリエイティブに解決するしかないのである。

 その上であればもちろん、合併もあってよい。安易な数合わせ、看板の付け替え、そしてマスコミの追随しての盲目的な合併推進キャンペーンだけは、やめよう。親(国)の都合で決めた結婚(合併)は、必ず子どもの親への依存(国へのもたれかかり)の口実をつくり出し、親子ともに自立できない。一見、冷たいようでいて、子(自治体)は突き放す。そこから、親子(国と自治体)ともに、成り立つ活路が、見えてくる。(了)